始めた当初は「なんのひねりもないネーミングだな」と揶揄された能代宇宙イベントも、昨日で無事に7回目が終了した。そして毎年、この時期に僕がまずこのblogで書くのは終戦に関する内容とまぁパターンが決まっていたけれども、今こそ能代宇宙イベントを語ろうと思う。これは毎年、恒例となっている能代宇宙イベント大懇親会にて、今年僕が参加者諸君に語った話でもある。

諸君、国難の時期である。現在我が国は未曾有の国難に直面している。これは誰しもが認める、厳然たる事実だろう。しかしここで考えて貰いたいことがある。この国難は一体、いつ始まったのであろうか?3月11日の大震災に端を発し、その後の原子力発電所事故による大混乱が国難を広く国民に理解させたことは事実である。それではこの国難は3月11日に始まったのだろうか?だんじて否である。これは起こるべくして起こった事件である。私をはじめ、今日会場にもいらっしゃる土岐前会長、そして斎藤能代市長をはじめとする協力者の方々が皆、危惧していたことが具現化したに過ぎない。我々は今日の日があることを予見し、この国難を乗り切る重要なエッセンスとして、貴重な卵として、諸君等の活躍に期待し、この能代宇宙イベントを立ち上げたと言ってもまったく過言ではない。
諸君。国難の時期である。しかしその解決は、諸君等によってなされることを僕は疑わない。日本と世界の未来は、諸君等の双肩にある。我々はその日を迎えるために、諸君等と共に能代宇宙イベントを守り、育て上げてきた。

思えば1999年に起こった東海村JCO臨界事故が、この国で起こりつつある大きな歪みに気づかせてくれた。自然の猛威は全て人間の科学力で制御可能である。我々日本人の多くがそう思い込み始めた時に起こったこの事故は、まさに今回の事件の予兆でもあった。安穏とした生活の中で危機感を失い「難しいことは誰かが考えてくれる」と思い込んでいた多くの国民。目の前の中性子カウンターが警報を鳴らしている中、テレビでは防護服も着けずに災害現場に飛び込んでいく救急隊員に対して、自分がその決断をする立場にはない、あるいは目の前の一つのセンサーが示す事実だけで何が真実かを断定し行動にまで移すことに躊躇し、何も警告を発することが出来なかった多くの研究者達。これは誰が悪いという話ではない。我々一人一人が、情け容赦なく流れる時間軸の中で、自然の冷徹な方程式と向き合い、常に決断し、その決断の結果を甘んじて受けなければならないという摂理を忘れていたこと。その事実が厳然と示された事故だったと言えるだろう。
今回、多くの観測された事象やSPEEDIによる放射能拡散予測のような分析結果が迅速に公開されることが無かったのは何故か?それは一つ一つの数値やその意味を熟慮せず、新聞見出しのようなマスコミの語る簡潔な結論だけに国民が踊らされる事に対する懸念が大きな原因だろう。そして次々と入る情報に対し、決断すべき人達がきちんとした決断が出来なかったこと。これがますます事態を悪化させた。
過去、我々の先達は大自然の猛威に対し、それをなんとか制御するために様々な努力をしてきた。自然災害を予測しそれに対する対策を講じてきた。しかしいざ、その災害が我々の想像を超えたときには、躊躇することなく決断を行ってきた。予測は予測に過ぎないことをよく知っていたからである。マニュアルにないことが起こることを、よく知っていたからである。事が起きたときに周りを見渡し、自分自身が決断すべき立場にあることを理解すること。それを受け入れ、迅速に決断を下すこと。
「想定外」の事態は起こるのが当たり前である。「想定外」に対して対処できなくても責任が問われない、そのような考え方を行ったところで、「想定外」によって失われた人命、財産、人々の生活は二度と戻らない。このことをしっかりと理解し任せられる人材を育てること。これがこの国に起こっている大きな歪みを正すために必要な行動である。

遠く幕末の時代を思い返してみよう。列強によるアジア侵略が着々と進行する中で、国内では安逸とした平和な日々が繰り広げられ、多くの国民が未曾有の国難に直面していることに気づきもしていなかった。その時に誰よりも早くこの国難に気がついたのは誰だったのか?それは薩長土肥をはじめとする、慣行に縛られない地方諸藩の有志達であったのではなかっただろうか。もちろん勝海舟をはじめ中央でも多くの人達が危機を理解していただろう。しかし200年にも及ぶ動乱の時期を収束させ、その後250年にも及ぶ太平の世を築いた徳川幕府を支える側の人間として、過去の係累がその行動の自由を大きく制約していた。変革が新たな動乱を産むのではないか。その恐怖が、彼等の選択肢を狭めていたことは間違いないだろう。
だからこそ、能代宇宙イベントは能代で始まった。中央を遠く離れた能代で、秋田大学で、この試みは始めることが出来た。僕は今でも豊島前能代市長を訪ねたときのことを鮮明に覚えている。「『遠い空の向こうに』(と言う名前の映画。原題名はOctober Sky)を能代でやろうというのですね。是非やってください。」と差し出された手の温かさを、未だに僕は覚えている。「秋山君。このままでは日本は今に、大変な時代を迎えることになるよ。」コーヒーを片手にそう語った、土岐先生の話を、今でも覚えている。「これからの時代を作るために、私の名前を自由に使ってください。」と言ってくれた新岡先生、的川先生の口調を、今でもはっきりと思い出すことが出来る。日本という国が、我々の国が、今、大きな曲がり角を迎えようとしている。日本の様々な場所で生きてきた我々の共通認識として、そんな想いが我々に有りました。そして今こそ、我々が立ち上がり行動すべきである。『汝の成すべき事を成せ。』その想いが、我々の行動原則でした。中央としっかりとした連携を保ちながら、地方からしか発信できない、地方が成すべき事をやる。昨年、宇宙開発委員会の池上委員長がイベントを視察に来られました。そして今年、池上先生に「是非見ておいで」と勧められたと、井上委員長代理が視察に来られました。中央が出来ること、出来ないこと。地方が出来ること、出来ないこと。その絶妙のハーモニーが能代宇宙イベントでは実現されている。お二人と話しながら、そんなことを強く思いました。

能代イベントの会場に見学に来られた人には、次々と打ち上げられるモデルロケット・水ロケット、そしてバルーンからの缶サットの落下実験が目に付くと思います。またこれと並行して、特に今年はモデルさんによる参加チームのTシャツコンテストや御当地蕎麦食べ比べ、秋田名物ババヘラアイスや能代イベント関連グッズの販売など、お祭り色が強い風景。本州最北端に近い能代に、300名を越える多くの高校生・大学生達が集まり、地元の方々と一緒に盛り上がっているこの状況こそが「イベント」であると考えられる方も多いだろうし、実際、そのような集客イベントとしての役割を期待される事も多くあります。もちろんそれはそれで重要な事だけれども、能代イベントの神髄はそこにはありません。会場からは打上しか見ることが出来ない、ハイブリッドロケットの射点にこそあります。そして射点から遠く離れ、イベント会場中心に置かれた実施本部での全体プロマネの孤独な戦いにこそあります。
「学生の手で作った衛星を、学生の手で作ったロケットで打ち上げる。」その大きな目標に向けて既に2年ほど前から始まっていた缶サット-ロケットのコラボ企画は今年、大きなステップを一つ上がりました。それまでは単独大学が製作したロケットであったものが、複数の大学がそれぞれのパーツを製作し、能代で最終的なインテグレーションを行い組み上げ、缶サットを搭載して打ち上げるUINISTAR計画が実施されました。もちろん能代宇宙イベントの会場整備は、秋田大学の和田先生を中心とした、能代の協力者・協力企業の方々の御尽力により実施されていますが、その会場の安全運用は、既に完全に様々な学生団体による共同管理にて行われています。今回のUNISTER計画はこういったJV(ジョイントベンチャー)形式の集大成として、それぞれの大学チーム・参加者がそれぞれの成すべき事を実施し、刻々と変化する状況に合わせて最善の対処をそれぞれの責任の下で実施されました。そしてもちろんその判断の一つ一つは瞬時に全体に通知され、情報が共有されています。そこには見事なハーモニーが作り出されています。古い言葉ですが、まさに『交響するコミューン』が、そこに具現化されています。賑やかなイベント会場ではなく、射点の周りを支配する参加学生達の想いが、あのホワイトノイズにかすれた無線機の声を通じて、我々の心に染みこんできます。「N2O充填を確認しました。発射5秒前。4、3、2、1、点火。」きっとこの声を生涯、僕は忘れることがないでしょう。産業化の中で解体した共同体の共同性と、市民社会で発達した個人性を併せ持つような、自由と平等が共に実現された高次の共同社会。一人一人が刻々と変化する自然状況・人為的状況を把握し、なすべき決断を躊躇することなく行い、全体としての意思を統一する。僕はコミュニストではありませんが、我々が目指すべき高度に熟成された民主主義社会を支える担い手としての人材が、ここ、能代の地で育ちつつあることを今回も深く感じました。今回、UNISTARの1号機は打上・分離には成功したものの、その動作は当初予定した物とは異なっていました。それに対する対応を判断した全体プロマネとしての春木の決断、それをサポートした園田をはじめとする各大学の面々。そして見事、3日後には改修したUNISTAR2号機で、プロジェクトを成功裏に終了させます。思い起こせば第1回の能代宇宙イベントから全て参加している学生はもう居なくなったのですね。第2回から参加してきた彼等も今年で卒業していきます。この能代イベントが彼等を大きく成長させてきたんだな、と言うことをしみじみと感じました。

諸君。君達はこの能代で学び、そしてまた日本の各地に、世界の各地に旅立っていくことでしょう。しかしきっとその心の底に、能代の地で学んだ、培った精神が、「まかせられる人材」としての諸君の将来を支えていくことと思います。様々な困難に直面したとき、諸君の脳裏に、今日も見たであろうあの能代の海の雄大な夕焼けが浮かぶと思います。この豊かな自然と人々の生活を守るために、諸君が成すべき事を成すこと。その重要性を、諸君はしっかりと学んだことと思います。

今回、久しぶりにお会いした斉藤能代市長に、「お帰りなさい」との挨拶を戴きました。遠く和歌山に離れた今も、我々の精神は共にありますよ。きっと市長はそうおっしゃりたかったのだと思います。諸君もまた何時の日か、能代に戻ってきてください。社会に出て、異邦人のように彷徨う事もあるかもしれません。しかし思い起こしてください。我々には帰るべきところがあります。守るべきところがあります。能代の大地に広がる、風車のたもとの風そよぐ草原の声に耳を傾けてください。「お帰りなさい。」きっと、そう聞こえるはずです。
『汝の成すべき事を成せ』
今日学んだこの事を深く心に留めて、明日からも頑張ってください。そしてこの国難を乗り切り、新しい日本を、世界を、我々の手で創り出しましょう。諸君の切り拓く、我々の未来が照らされて在る事を、僕は信じて止みません。また会いましょう。

・能代宇宙イベントを語ろう

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・能代宇宙イベントを語ろう” への2件のフィードバック

  1. 今日、チェルノブイリハートという映画を観てきました。チェルノブイリ事故一年前に母になった私は、この事故後、原発はいらないってビデオや、生活クラブや、チェルノブイリのドキュメンタリーの映画等で、報道されない、原発の恐ろしさ、知っているつもりでした。でも、現実は、事態はよりはるかに根が深く深刻で悲惨になっていました。石棺とよばれる(あくまで応急措置の)建造物を覆ったコンクリートが間もなく耐用年数(30年)を迎え、今も年間4000KL近い雨水が石棺内に流れ込み、原子炉内部に通過して放射能を周辺の土壌へ拡散、近くで計ったら恐ろしい数値(増えてる)だったり、遺伝子を傷つける放射能汚染の、直視するのもつらい現実だったり、、、。ひとつ星に住むわたし達は、それは自分のことなんだって思いました。映画の中の最後にメッセージでマリアン・デレオ(監督)も、宇宙から地球を見たら、日本の海が、水が、空気が、わたし達の海で水や空気であることは一目瞭然って、書いていました。メッセージは、「生きることを自分の職業にする」っていう詩から、どうやったら「顔を見たことのない人のために死ねる」っていう問いかけの答えを探してるっていうのから始まって、日本はきっと再生する、復興する、チェリノブイリ事故後の「いのちの物語」もこれで終わりではなく、まだやらなければいけない仕事は山ほどあるけど、かならず達成できる、いつの日かまた人々はオリーブの木をうえるのです、で締めくくられていました。あきあきさんと共通する何かを感じました。
    わたしは、これからの若い人たちに、わたし達が、自分たちのしてきたことについてどう責任をとれるのか考えたとき、こうなったのは私の上の年代の人たちの欲張りのせいで、その人たちが責任をもって、若い人たちに自分の持ってるものを差し出し、そんな生き方を見せ、これから人のために生きたればいいと思いました、だけど、そんな風に人に求めるのは手放して、未来のために、じぶんの出来ること、やろうと思います。

  2. 能代イベントに対し
    気持ちの持ちようがたりなかったなぁと
    反省する今日この頃。
    来年にむけて、
    これからの活動にむけて、
    考え直してみます。
    むずかしい・・・

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