交響するコミューン。
 『自然科学の語る真理は、宇宙のいっさいが物質の過程にほかならぬことを教える。われわれが死ねば自然にかえるのみであり、人間の「意識」も人類の全文化もまた、永劫の宇宙のなかでの束の間のかがやきにすぎない。この物質性の宇宙の外に、どのような神も永遠の命も存在しない。
ここまで幻想を解体し認識を透徹せしめた時に、はじめてわれわれは反転の弁証法をつかむ。われわれの、今ここにある、1つ1つの関係や、1つ1つの瞬間が、いかなるものの仮象でもなく、過程でもなく、手段でもなく、前史でもなく、ひとつの『永劫に置き換え不可能な現実として』、かぎりない意味の彩りを帯びる。
「…その認識は我々に、我々の時を愛させる。我々の時とは、知覚される最も小さな物のようにーシャボン玉のように、波のようにーあるいは最も簡単な対話のように、世界の混沌と秩序のすべてをその中に分割されていないままに包含するものだ。」(メルロ=ポンティ)
われわれの行為や関係の意味というものを、その結果として手に入る「成果」のみからみていくかぎり、人生と人類の全歴史との帰結は死であり、宇宙の永劫の暗闇のうちに白々と照りはえるいくつかの星の軌道を、せいぜい攪乱しうるにすぎない。いっさいの宗教による自己欺瞞なしにこのニヒリズムを超克する唯一の道は、このような認識の透徹そのもののかなたにしかない。
すなわちわれわれの生が刹那であるゆえにこそ、また人類の全歴史が刹那であるがゆえにこそ、今、ここにある1つ1つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊饒にとりもどすことにしかない。』

真木悠介のこの本を読んだのは、2浪の時だから20の時だなぁ。あれから20年。いや、別になんも意味はないのだが、、、、ふと思い出した。でも今から読んじゃうと、寝る時間が無くなるな(^_^;

『1つ1つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊饒にとりもどすこと』というのは、それは欺瞞に過ぎないんじゃないのか?それは我々が感じる、郷愁にも似た心の弱さじゃないんだろうか?と昔も思ったし、今も思う。でもそもそも、どうして我々はそうも自分の人生に意味をつけたがるのか?愛おしさを感じたくなるだろうか?それは必然の感情なのではないだろうか?それを必然としている理由こそ、考えるべきテーマなのではないだろうか?

昨日にも増して意味がわからんな(笑)

今日の教訓。悪貨は良貨を駆逐するじゃないんだからさぁ。負の感情の連鎖じゃなくて、リスペクトの連鎖をこそ望もうよ、ホント。

・気流の鳴る音

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