世の中で何かを「教える」というのは、「概念装置」をその人の中に構築することだと、これはもう高校生の時代から思っている。ホント?と思われるかもしれないが、本当である。なぜなら、高校時代に強烈な原体験があるからだ。
中高一貫教育を受けていた僕は、中3・高一のころはそりゃもう・・・遊びまくった(笑) 全然勉強せず。成績も250人中220番とか、まぁそのぐらいだった。その後、卒業時には120番だったか80番ぐらいに上がるのだが、そのきっかけとなったのは、駿台で受けた高見先生の物理の授業の最初の1時間。「物理なんて、ホントは簡単なんだよ。その考え方を理解できるかどうかだけだ。」ホント、その一言だけ。それでわかったし、変わった。
高一の終わりに、大学の二次試験を真似た実践模試が始めて有るのだけど、それを受ける前に高校の物理の先生に、「今回の模試、物理は全国10位以内に入りますから」と宣言。生徒をばかになんてしない良い先生だったけど、さすがに「何いってんだこいつ?」というような、表情を読まれないように困ったよう顔をしていたのを今でも鮮明に覚えている。ま、そりゃそだよね。それまで成績全然だったんだから。
で、ふたを開けると・・・。ホントに全国で7番だったんだな、これが。職員室は大変で、中1の頃の担任にわざわざ呼ばれて、「大騒ぎだぞ」と言われたぐらいの状況だったらしい。でも、僕には不思議でも何でもなかった。何故か?
あのわずかな時間だったけど、高見先生は僕の中に、「物理的概念装置」の回路を組み込むことに成功したのだ。実はこれを教えることはとても困難で、普通はいくつもいくつも問題を解かせることによって、「ははーん、こういう風に振る舞ったり考えたりするのが良いんだ」と学んでいくしかないわけだ。しかし一旦、その物理的概念装置が組み込まれたら、別に個別の問題を学ばなくても、その場で解けるようになる。これが教育だと僕は思った。

最近、とある学生と話していたときに、「だから○○という規制をすれば良いんですよ」というようなことを言われた事がある。学生を教育するには、○○をするべきだとさせたり、○○しちゃいけないと禁じたり、そーやって行くべきだ、と。でも、これだと「プログラム」を書いているに過ぎない。この「プログラム」書きが行き着く先は、「言われてないからやらない」「怒られなかったからやった」というような自主・自律とはほど遠い結果になると、僕は思っている。
なにをやるべきか、何をやっちゃいけないか。そんなことは、自ずとわかるべきなのだ。それを実現するのは規制や行動指針といったプログラムではない。もしプログラムでそれを実現しようとすると、それはいったい、何万行必要なんだろう?何百万行?しかし、精神が理解できていれば、、すなわち概念装置だね。これが入っていれば、一言ですむ話しである。
じゃ、その精神はどうやってインプットできるか??・・・残念ながら高見先生のような卓越した教育センスを持っていない僕としては、じっくり根気よく、教えていくしかないんだよね(^_^;
ただし、教えるのは「判断した結果」じゃなくて、それに至る過程でどう考えるのか、考えたのか、そういう話しなんだけど。このあたり、伝えるのは結構大変なのだ。

・教育とプログラムの違い

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