夜。俺は独り目覚めている。
今夜は宿が見つからず、山蔭の渓谷の大樹の下に草を藉いて、四人がごろ寐をしている。一人おいて向こうに寐ているはずの悟空の鼾が山谷に谺するばかりで、そのたびに頭上の木の葉の露がパラパラと落ちてくる。夏とはいえ山の夜気はさすがにうすら寒い。もう真夜中は過ぎたに違いない。
俺は先刻から仰向けに寐ころんだまま、木の葉の隙から覗く星どもを見上げている。寂しい。何かひどく寂しい。自分があの淋しい星の上にたった独りで立って、まっ暗な・冷たい・なんにもない世界の夜を眺めているような気がする。
星というやつは、以前から、永遠だの無限だのということを考えさせるので、どうも苦手だ。それでも、仰向いているものだから、いやでも星を見ないわけにいかない。青白い大きな星のそばに、紅い小さな星がある。そのずっと下の方に、やや黄色味を帯びた暖かそうな星があるのだが、それは風が吹いて葉が揺れるたびに、見えたり隠れたりする。流れ星が尾を曳いて、消える。
なぜか知らないが、そのときふと俺は、三蔵法師の澄んだ寂しげな眼を思い出した。常に遠くを見つめているような・何物かに対する憫れみをいつも湛えているような眼である。それが何に対する憫れみなのか、平生はいっこう見当が付かないでいたが、今、ひょいと、判ったような気がした。師父はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命もはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡の前に、それでも可憐に花開こうとする叡智や愛情や、そうした数々の善きものの上に、師父は絶えず凝乎と愍れみの眼差を注いでおられるのではなかろうか。
星を見ていると、なんだかそんな気がしてきた。俺は起上がって、隣に寐(ね)ておられる師父の顔を覗(のぞ)き込む。しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、俺は、心の奥に何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。


『悟浄歎異』より

”沙門悟浄にとっては3人の天才が居る。一人は孫行者悟空。一人は三蔵法師。そしてもう一人は猪悟能八戒。三人は『所与を必然と考え、必然を完全と感じて』いる。さらには、『その必然を自由と看做している』が故に天才であり、それぞのれの行動に一点の迷いもない。全くタイプが異なるにもかかわらず、この三人はこの点においてのみ同一であり、そしてひたすらそれぞれの生き方を邁進する。
そしてただ一人、バリバリの近代人である沙悟浄だけが、『調節者、忠告者、観測者にとどま』り、『けっして行動者にはなれない』。”
中学一年生の時、現代文の和田先生が、僕に日本近代の精神を教えてくれた。いや、気付かせてくれた。しかし長らく、僕は自分が悟空だと思っていた。いや、思いたかった。自由に、闊達に、迷わず、信じる道を破竹の勢いで行動する。朝日に驚嘆し、讃嘆する。松の芽の発芽に眼を瞠る。

もともと意味を有った外の世界が彼の注意を惹くというよりは、むしろ、彼のほうで外の世界に一つ一つ意味を与えていくように思われる。彼の内なる火が、外の世界に空しく冷えたまま眠っている火薬に、いちいち点火していくのである。探偵の眼をもってそれらを探し出すのではなく、詩人の心をもって彼に触れるすべてを温め、(ときに焦がす惧れもないではない。)そこから種々な思いがけない芽を出させ、実を結ばせる

そんな生き方が僕には出来る、と信じていた。

しかしそんな考えは、2年間の浪人時代が吹き飛ばしてしまった。
悟空を凝縮し、凝固させ、小さくさせるには、鉄丸を喰らい、銅汁を飲み、五百年もの長きにわたり、五行山の重みの下に押しつける必要があった。それに比べて何と自分の小さいことか。たった2年。その2年で、こんなにも自分は萎縮するのか。そんな風に思った。

結局、僕は沙悟浄なのだ。バリバリの近代人。調節者、忠告者、観測者にとどまり、けっして行動者にはなれない。天才の寝息の中、一人目覚めて星を眺める。ただ、寂しさだけが心に去来する。出来ることは、その寂しさで、冷たさで、ますます心を研ぎ澄まして、覚めた目で周囲を見渡す事、のみ。

近代の相克、とも和田先生は教えてくれたけど、、、、そんな日が僕に来るのは、まだまだ先のようだ。

今夜も、見上げる星が、ひどく寂しい。その中を、また一歩、また一歩、進む自分が居る。


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