えー。こことかこことか、各方面から書くことを強要されているようなので一つ書いてみますが、スミマセン。期待に添わず実況じゃありません。
まずそもそも論としてUNISECのWSとは何か?から始めるべき何でしょうが、これまでは各大学が、それぞれの一年間の活動内容を報告する会合でした。もっともこれも、他のUNISECの活動と同様、そう在らねばならないと決められている訳ではなく、現在はそのスタイルであるということに過ぎません。UNISECとは自力で宇宙を目指す学生・教員達の団体であり、そもそも宇宙へ行く方法はまだ確立されているわけではない現状において、在り方が最初から規定できるわけがないということでしょう。僕もその理念に賛同します。
UNISECのWSは、基本的に学生の運営で、学生の発表で進みます。裏番組で教員会議があったりもしますが、基本は学生の運用です。ここに大学の在り方についての一つの示唆もあると僕は思っています。
大学とはいかなるべきところなのか?基本的に高校までと大学とでは、同じ教育機関であってもその位置づけは全く違うと僕は思っています。高校までは教える側の教員と、教わる側の学生が、学校という世間とは隔絶して護られた環境下で活動が展開されます。しかし大学に置いては、本来は学生ー教員はイーブンな関係で在るべきです。これは学生が教員の言うことを聞かずに好きかってやって良いと言うことではもちろんありません。教員が言うことを学生は盲信するのではなく、その一つ一つを自分としてよく考えてみること、そしてよく話し合うこと、よくぶつかり合うことが重要です。しかしまぁ現状の大学では、教員の言うことに盲信・盲追する学生、あるいは独り善がりな理屈を教員にぶつけてそれが正当な論証だと考えているような状況が多々あるわけですが。
昔、中島みゆきの歌詞に”世の中はいつも変わっているから頑固者だけが悲しい思いをする。変わらない物何かに例えてそのたび崩れちゃそいつのせいにする”ってのがありました。学生も、そして教員も、現実社会の中に存在する、決してパラダイスではない、理想郷ではない大学というリアルな存在の中に位置しているのです。その中に於いて、自分達が何をしたいのか、何をなすべきなのか、お互いが切磋琢磨し合いながら存在する。そのことにこそ大学の存在意義はあるはずです。誰かに夢を見たり、誰かに夢を託したり、誰かのせいにするために大学にいるわけではない。現実社会の中に於いて、現実社会よりも少し緩やかな自由度を与えられた環境下で、現実社会をリアルに変えていくための原動力となる、それがそもそもの大学の使命だと僕は思うのです。
まぁしかし残念なことに、現実の大学というところはなかなかそうはなっておりません。その中において我々は何故UNISECに参集するのか?その活動を支えていこうとするのか。盛り上げていこうとするのか?と問えば、答えは一つです。UNISECこそがそのエッセンスを標榜し、実現する事が出来る団体の一つであると、信じているからでしょう。少なくとも僕はそうです。UNISECに参加して、それこそ大げさでなく、日本中の優秀な学生達と、先生達と、出会い、活動を共にすることが出来ました。それは僕にとっては大きな財産です。
しかしそのUNISECは何時までもそのエッセンスを維持できるかどうかは、日々の我々の活動にかかっているのです。WSはそういう学生・教員達の活動をみんなで話し合い、それぞれの活動を理解し、意見を交換し、次の一年の活動の基礎となるべき会合だと思います。そこから明日の宇宙開発が実現する、そんな会合になるべきだと思います。
僕の目から見たUNISECの学生は、立派だなぁと思うところが半分。物たりねーと思うところが半分です。例えば今回、丁度UNISECのWS開催中に、北海道でカムイロケットの打上に関連し、点火者のすぐ隣にロケットが落下するという事故がありました。これに対する教員側の対応も早かったと思いますが、負けないぐらい学生達もこの問題点に関する対応策をすばやく、そしてしっかりと考えていました。これは学生諸氏がこの問題を他人任せにするのではない、自分達自身がクリアーして世に示していくべき課題であると考えていたからこそできる行動だと思います。誰かに護られた中でロケットの打上を実施しているのであれば、こういう行動はとれないでしょう。これはホント、立派な芽が育ってきていると思います。
一方で、学生衛星は既に宇宙を飛び、ロケットもばんばんと打ち上げられるようになってきているけれども、エポックメーキングな出来事、質的な変換が、跳躍が、最近見られないのではないか?その兆候すら見えてこないのではないか?というのが物足りなく感じるもう半分です。
そこそこ衛星が上がって、そこそこロケットが打ち上がって、その現状で満足していないだろうか?自分が想定した範囲内での出来事以外は全て”危険”というレッテルを貼ることによって、自身の成長を阻害しては居ないだろうか?それが大人な態度だと勝手に思い込んでいないだろうか?もちろん物事に挑むに当たっては、最大限の準備を行い、さまざまなリスクを想定し対応策を模索して臨むのが良いに決まっています。しかし実際にその事象に対峙したとき、我々が事前に想定できなかったようなトラブルに出会うのが、フロンティアに対峙する宿命です。その時にすぐさま撤退を決め込むのか?あるいはその状況下で、最大限の安全を確保し、リスクヘッジを行い、担うべき責任を担い、ミッションを成し遂げること。その心意気を忘れては、我々はフロンティアにはとうてい挑めないのじゃないだろうか?そう思います。
教員側は学生の行動に対し、好むと好まざるに係わらず、より多くのリスクテイクを求められています。その時に教員が何故リスクテイクに応じるのかと言えば、それは自主的に活動をする学生達に対する信頼があってこそ、です。だからこそ、学生と教員は、本当に建設的な意味でぶつかり合い、学びあうことが重要なのです。本来大学というのは、それが実施できるべき場所であるべきです。そしてUNISECのメンバーの一人一人はそう言う矜恃を持つ団体であるべきだと僕は思っています。例えば能代のイベント。ここで事故が在れば、会長であるうちのボスもさることながら、事務局の僕もそれこそ後ろに手が回るかもしれません。そんなリスクを背負って、何故に自分の大学の学生でもないUNISECの学生達の活動を受け入れるのか?それはフロンティアを共に切り開く仲間としての信頼が在るからだと僕は思います。
長々と書きましたが。僕が言いたいのはWSの発表で最後のスライドで書いたことです。すなわち、”晩ご飯を食べれるのは何故?”です。晩ご飯。子供の頃、いつも帰ったら食卓に晩ご飯が並んでいました。(幸せな家庭に育てられたのだと感謝しておりますが、ま、そんなことは置いておいて。)晩ご飯が並んでいるのが当然だと思っていました。誰かが晩ご飯を作ってくれるのが当然、と。しかし、もちろん食材を買うために稼いでくれた人が居て、食材を買って調理する人が居て、始めて子供の僕は晩ご飯が食べれたのです。
アポロから38年。子供の頃、”大きくなったら月に行けるようになるんだよー”といわれて育った我々世代。38になった今、そんな未来は未だに到達していません。何故か?誰も食材を買う金を稼がなかったから。誰も晩ご飯を作らなかったから。もっと言えば、誰も食材を採取したり育てたりしなかったから。それだけです。UNISECは、誰かに連れて行ってもらう宇宙じゃなく、自分で行く宇宙を模索する人達の集まりだと僕は思っています。今年のWSは終わり、また次の一年を我々は始めようとしています。さぁ、新たな一年の歴史を作り出そうじゃありませんか。今年もまた、”あの時歴史が変わったよね”と後世に言われるような、エポックメーキングな一年を、共に切り開こうじゃありませんか。来年、秋田でお待ちしております!

・UNISEC WSに想う

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